某教師が、いよいよ(やっと)前期の講義も終盤戦。オンライン化で、息も絶え絶えやっとここまで来た……。と、書いておられるのを見て、さもありなん、そうだろうねえ、とため息が出る(共感)。授業だけでなく地域やOB会コミュニティのオンライン化は「進んでいるような」「みんながやっている」「快適にさくさく」のはずがない。教材作り、一律でない人間関係、云いにくい個別の事情、率直に心労を訴えていただくことに温もり、親しみを感じる。飛躍するが、3月の全国一斉休校、7月のゴーツーキャンペーン、一律の政策はランボーだ。感染拡大の東京でも都下の街は地方なみである。
大学入試はなんのためにあるか。校舎や教室のキャパシティに限界があり、学生のレベルをそろえないと授業も単位認定試験もやりにくいからだとか。オンライン化で入試不要論がではじめた。教室の席数はいくらでも増やせる。大学不要論は前からある。「沈まぬ太陽」のモデル小倉寛太郎氏は、観測設備と実験設備の必要な学部へ行け、と云う。宇都宮健児氏は東大在学中に司法試験に合格し、貧しい実家からの仕送りを辞退して退学した。異次元の才能や自立を常人はまねできない。身体や家を任せて安心は、所定の大学を卒業し、国家試験合格の医師や建築士がいるから。
銀行や証券業界のOB諸氏には「社会インフラとしての金融の教養、深さ」に底知れぬ畏敬を感じる。大学で文系学問を修め、長い実践経験で培われたもの(汗と涙もあろう)は至上の価値、医師や工学系の専門家と同等、また以上である、現場を仕切った専門知は今後も入試や大学廃止論で、そしてITでも代替できないのではなかろうか。7月21日(火)消印有効で放送大学単位認定試験の回答(マークシート)を投函した。集合受験は中止になった。民法、生活者のための不動産学、情報セキュリティティと情報倫理の3科目。情報の暗号理論の章には中学レベルの因数分解、関数が登場。前期は不可で再試験。落ちこぼれても仲間から外されない(と希望)、級友との情報交換が楽しいのは中学、高校と同じ。
学問や習い事には、好き(興味)、向き(適性)、センス(感性)が決定的だと思う。記憶や整理、速さは、コンピューターで代替できるのは過去と大違い。私は短歌には興味はあるが、適性とセンスがないので、ついに作ることはなかった。プログラムも同じ。プロの多くは学校で学んでいない。「自分はなんにも知らないんだ」の自覚と他への尊敬が学ぶ効用。貧相な書棚に、好き(興味)ではあるが、モノにできない分野の本が並んでおり、今は保有と背表紙をながめるだけが楽しみになった。恥ずかしくてWebミーティングの背景画像にできない。
努力外、生まれつきの向き、センスや若い日の悔恨をいつまでも卑下、自虐しすぎるのは生んでくれた母にも、育ててくれた父にも失礼だと思うこの頃である。賞罰なしの履歴書だが、最後は自分に「せいいっぱい生きたで」賞の贈呈で、完。写真は隣のマンションです。
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