鹿児島の身内Aと身内BはLINEのグループでつながっており、一人住まいの身内Cは固定電話(手紙)である。減らない東京の感染者数はたぶん「東京あぶないニュース」として故郷に伝えられ増幅され、心配は以心伝心である。モロの問いを遠慮するところがある。身内Aは車で近場、身内Cの様子を見に行ってくれる。LINEやSNSで「パパパッと情報共有」もいいが、情緒が乾燥しやすい。手間ひまのかかる「様子を見に行く」にはゆっくりの湿り気(日持ち)がある。
身内A、Cは断捨離を始めたそうだ。年齢からいえば私こそ断捨離を急ぐべき。昨日ベランダの粗大ごみを区のHPで申し込んだ。オンライン、パパパッを支えていただいているのはソーシャルワーカーのゴミ収集の方々(リアル、物理移動)である。断捨離がいつまでも本腰にならないのは、期限を切られていないからだ。終活はどうだろう。
難儀なのはデジタル終活である。Facebookやブログ各社、無料でもあまり広告の目立たないサービスが多々、どれを選ぶかは作者(投稿者)の判断。過去の保存なら引越しやリンクという手もある、死後はどうなるか。即抹消、49日で抹消、1周忌まで、など仕組みを作っていただいて、生前に選択できればありがたい。最後のメッセージ(事前登録)の自動アップとか。下手すれば作者消息不明のまま、永久にデジタル宇宙を漂流することになりかねない。友人Uはご遺族にパスワードを相続し最後の記事訃報が掲載され、ご家族管理「ブログ霊園」に眠る。
司馬遼太郎の短文を読む。司馬さんは、山口、高知、鹿児島を旅して市井の人々との会話を記した。長州、土佐、薩摩の明治の遺風は現代にも残っているか。消えたとすればその原因は?鹿児島県人として納得するが、委細は省略します。
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